ライブアライブに対する批判についての駄文

http://d.hatena.ne.jp/cherry-3d/20060622/1150971768
とりあえず前島氏の意見にちょっと同意できない点について書いてみる。

全校生徒(?)がハルヒの歌唱力に大注目とか(「サムデイインザレイン」の、あるいは下手な学生映画にすぎない「朝比奈みくるの冒険」の、しょせんハルヒも大勢の中の平凡な学生でしかないっていう、あの残酷な認識はどこにいったんだ?)、たかが学園祭での演奏程度で「何かをやっているって感じがした」なんてあっさり充足しちゃうハルヒとか(それでOKなら最初から適当な男とでもくっついて世界改変能力なんて放棄してるだろ)

今回のハルヒの唄はあまりに上手すぎるのである。だからそこで作品のトーンが、「才能はあるし適当に社会にアジャストして努力すれば、適当にうまくやって適当にそこそこの記録は残せるはずなのに、いつもセカイとか革命とか浪漫とかを求めてしまうせいでズレたことしかできない」はずだったハルヒが、変質してしまっている。

の部分がちょっと自分とは考え方が違うかな。

そもそも生徒が注目したのはハルヒの歌唱力だけではないし

「才能はあるし適当に社会にアジャストして努力すれば、適当にうまくやって適当にそこそこの記録は残せるはずなのに、いつもセカイとか革命とか浪漫とかを求めてしまうせいでズレたことしかできない」はずだったハルヒが、変質してしまっている。

の部分だけど今回の話では才能があるハルヒは社会にアジャストしてないが、社会(バンドメンバー)の方がハルヒに対して合わせてると言ってもいい。これは自主制作の映画と比べてみればわかると思うけど、映画は1から自分達(内容のほとんどはハルヒだけの指示)の手で作ったのに対して*1ライブに関しては、前もって作詞・作曲が出来ていてずっと練習していたドラムとベースの生徒が完璧に(勿論長門有希も完璧に)演奏したから、つまりハルヒの才能を発揮するための舞台を用意したから(時間がないからハルヒが全く合わせてないとは言えないけど)、*2、才能があっても時間がなかったハルヒの唄でもたった2曲だけ盛り上げることができたのである。ほんの一瞬の奇跡のようなもんだと思う。
ライブ直前のバンドに飛び入り参加をするということ自体が普通の人とズレてるし、ズレてるのにウマイこといったからキョンが驚いていて、視聴者である自分も驚いた。
「作品のトーンが(中略)ハルヒが、変質してしまっている。」って、このSOS団関係者ではなく一般人の用意した舞台での偶然・奇跡とも言える成功すなわち変質こそが今回の、時系列上のそれ以降の物語を理解する上での重要なポイントなんだけど。これについては後述に含まれる内容なのでそこで。
まー、たしかに平野綾自身の唄が上手すぎな気もしないでもないけど演出上の許容範囲内だろう。

そして上の

たかが学園祭での演奏程度で「何かをやっているって感じがした」なんてあっさり充足しちゃうハルヒとか(それでOKなら最初から適当な男とでもくっついて世界改変能力なんて放棄してるだろ)

についてはもうハルヒの思考の捉え方からして俺とは違うみたい。まずハルヒが映画を作ろうとしたのも草野球に参加したのも注目を集め盛り上がるためだろう。今までハルヒ自分の思うがままに行動して今回のライブのように一般人を素直に盛り上げることが出来てハルヒがそれを実感したことがあっただろうか?身内のキョンはそれなりの理解を示しても一般人からはいつも痛い視線を浴びせられていただけだ。初めて自分以外の一般人を盛り上げることができたから「何かをやっているって感じがした」のである。そもそもSOS団は「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」だし。
そしてその盛り上がりを認識した後、バンドメンバーに目を向ける。(ハルヒがライブに参加したのは自分がやりたかったからでいつもの勢い任せの行動だったけど)この時初めてハルヒは「自分だけの力ではできなかった」と理解する。要するに一般人側に歩み寄っているのである。
だからこそ文化祭の後日の話である「射手座の日」でコンピ研部長の長門有希が欲しいという願いにキョンの意見が有りながらも「有希がいいならいい」とキョンだけではなく長門有希の意志も尊重した返事をするわけ。「涼宮ハルヒの退屈」での草野球の話でキョンに頼まれたから棄権した時の「あんた(キョン)がいいならそれでいいわ」と相手チームの意志は考慮せずにキョンのためだけにした返事*3と比べると違うでしょ。(ちなみにこのアニメの終盤やラストシーンではハルヒと誰か―と言っても多くはキョンだが―との今までとはちがう微妙な差を描写することが多い)
こうやって他人に歩み寄っている(勿論ライブの成功によって一般人側からもハルヒに歩み寄っている)からこそ「サムデイ イン ザ レイン」では前島氏の言うような異常な存在なはずのSOS団があたかも日常に埋没してしまうという一見残酷にも思える演出があるのである。*4俺としては残酷どころかSOS団の存在がある程度一般人に認められて溶け込むことが出来た喜ぶべきものだと思う。

原作の良さは「自己中なハルヒが主役ではなく代役としての役目をこなす」ことなんだけど、アニメの良さは「いつも通り主役をやりながらも周りの者がいて初めて自分も輝けるということをハルヒが認識する」ことであろう。
とりあえず反対意見はこのぐらいだけど

ところが、あの饒舌体がなくなったとたんに、キョンの「おまえは感謝されて嬉しかったんだ」というセリフは、劇中においてまるで真実であるかのように機能してしまっている。

なんかは同意見。俺はあの場面、キョンが何を考えてるかわからないハルヒの感情を想像するような形で、もっと視聴者にハルヒの気持ちを考えさせるように言うべきだったと思う。

*1:もし映画制作の際、色々と機材が揃っていたり、事前にハルヒの仕事が何か一つだけになってたとしたらどうなっていただろう?「孤島症候群」の話がまさにそれで名探偵の役だけを用意されていた。完璧な推理ではなくても解決の重要なキッカケになるほどいい所まで行ってた。

*2:前もって目立てる舞台が用意されてあるならそれを最大限に活かそうとするのがハルヒという人間だろう?長門だって無理矢理連れて来ただろうしハルヒはいつも通り感情に従っただけ。

*3:この時既にハルヒは閉鎖空間でキョンと不思議な体験をしてるためキョンにだけは特別な感情を持っている。

*4:残酷な認識って、ハルヒ達の声が放課後の他の部活動のせいで聴こえない場面のことだよね?