自己の意を押し通す力 我儘を押し通す力

157時間目の感想。
中国拳法の使い手がぶつかるという展開、そして何よりネギと夕映の議論を読んで『バキ』の烈海王とドリアンの「強さとは何か」という問答を思い出してしまった。
ネギと夕映の議論。客観的に見れば夕映の方が圧倒的に正しいと思う。

起こってしまえば 全ては過ぎ去った過去 受け入れざるを得ない現実
人はその上に立って歩み行くしかないのです

「過去があるから現在の自分がある」理論。大切な祖父を亡くした夕映の言葉には説得力があるし、読者である自分もこの思想を以前から持っていたんだが……なんつーか、ネギの超に対する擁護があまりにも共感できるもんだったので戸惑っている。つーか、感心したっつーか
確かに、超鈴音のやってる行為は個人的なエゴだし、そんなことで世界を変えてしまうことは許されないだろう。そして過去を変えてしまえば現在の自分を否定することに繋がってしまうかもしれない。
でもさ、「超鈴音の過去」に起きてしまう悲劇ってのはネギ・スプリングフィールドを始め綾瀬夕映にとっても現在の(超以外の)誰にとっても未来のこと。いくら過去を変えることが間違ってるとわかっていても、ネギが夕映の論理に賛成できない理由はここにあると思う。夕映の意味していた「世界を変える」ことは「過去を変える」ことだったが、ネギが言う「世界を変える」ことは「起こりうる未来の選択肢からどれかひとつを選んでいく」こと。「過去を変えることの是非」に結論は出せても「自分の選ぶ未来が正しいこと」なのかネギは結論が出せない。たとえそれが世界を巻き込み、誰かを犠牲にすることでも。
将来確実に起きることがわかっている悲劇を回避することが、許されないことなのか?

もし自分の大切な誰か(もしくは自分自身)が死ぬとわかっていて、その人を助けるためには世界を変えないといけない。こんな状況になった場合「世界のために死んでくれ」なんて思えるわけがない。


「僕がみんなに一緒にいたいと思うこと。それもワガママだとは言えないでしょうか?」
これは超の「過去を変えるエゴ」云々だけに対する言葉ではなく、未来で超や誰かが犠牲になることを知っておきながら世界が大きく変わるかもしれない局面で、論理的理由を盾にして「ネギと一緒にいたい」という個人的な感情を見せた夕映に対する強烈な批判でもある。


もう

四葉「ねえ、ザジさん。最近の『ネギま!』凄い展開だね。」
省略
ザジ「それよりもっと大変なことがある。私達セリフあるかなあ。」

って感じですよ。いや、ホントにザジの出番はあるのか!?四葉はコアラで登場したけどさ。