『らき☆すた』 第22話「ここにある彼方」を深読みしてみよう

今頃になってこの話について書くのもなんだが、「Bパートが神!」的な感想しか見かけないのは気のせいなのかなぁ。中盤までのいろんなネタが、かなたの話と関係があると思うんだけどなぁ。それらのネタをちょろちょろっと掻い摘んで、テキトーに個人的な解釈を書いときたい。



まず、電話のネタが明らかに多いよね。
1回目はゆたかがみなみに掛けた電話。みなみがもう寝ちゃってて話ができないというオチ。
2回目は携帯電話で会話しているかがみとそれを眺めているこなた。会話終了後に「電話でジェスチャーしても相手には見えない」とこなたがツッコミをいれる。
3回目はみさおがかがみに掛けてくる電話。結局はド忘れで伝えたいことを伝えられないというオチ。
電話ネタに類似しているのが「パン工場〜♪」と「宝くじと懸賞」のネタ。「パン工場〜♪」は相手に伝わらなかったし、宝くじと懸賞はどっちもハズレ
これらのネタって明らかに誰かとの距離を感じさせるようなネタなんだよな。


次はこなたについて。

AパートとBパートのこなたを見比べてみてほしい。Aパートでは初っ端から寿司を奢ってもらったりゲームのやりすぎで「勉強しろ」とか言われて、いつも通り子供のような扱いされているのに、Bパートじゃ焼き芋を食べるかがみの体重のことを普通に心配しているし、何より泉家の中でゆたかに対して母性的な行動が多い
瓶の蓋を閉めるのなんてこなたがやらなくても、そうじろうがやっても別におかしくないよね?同じ場所にいるんだから。
ポテトチップスの袋が開かなくて困っているゆたかに対して「袋開かないの?貸してごらん!」とか言ったりするし。袋が開かないネタも別にゆたかの存在はなくても可能だし、本来なら夜遅くまで起きてて小腹が空いたこなたが一人でやるようなネタだ。何故、ここまで母性を強調するのか?
「ここにある彼方」ってサブタイトルは、泉家に今は亡きかなたがいることを表しているってことは誰しもが直感的に分かることだろうけど、それ以外に「こなたがかなた(大人)に近づいてきている」(←見た目じゃなくて)っていう意味もあると思う。だから、こなたの母性を強調していたのだろう。言うまでもないが「こなた」は漢字にすると「此方」で「こちら」とかそういった意味であり、「彼方」の対義語。で、「ここにある彼方」の「ここ」ってのが即ち「此方=こなた」で「彼方=かなた」。「かなたに似てきてドキドキする」という危険な発言も、単なるギャグ以上の意味があるだろう。
ちなみに作中の季節は秋で、おそらくお彼岸の時期だと思われる。お彼岸ってのは「迷いに満ちあふれたこの世、岸(しがん)から、悟りをえた世界、岸へ到ることを願って、行いを慎む期間」のこと。



他の人の感想を見てると、そうじろうとかなたの絆についてばっかり書いてて、他のことはその場限りのあるあるネタとしか認識してなかったようなので、ちょっと寂しいもんがあった。16話の「リング」におけるハルヒネタも物語から切り取って、そのネタにだけツッコミを入れているような人ばっかりだったからなぁ。「リング」がどういう物語だったかを、そして『涼宮ハルヒの憂鬱』の「ライブアライブ」がどういう物語だったかを理解してれば、あの露骨に見えるパロディが一体何だったのかわかるはずなんだけどなぁ。
所詮、大多数にとって『ハルヒ』も『らきすた』も一時的なお祭りでしかなくて、その物語を真面目に受け止めようとする人間は一部の空気読めない奴らだけってことか。


あと、今回の話で確信したけど、この作品って明らかに視聴者に「時間の流れ」を意識させようとしてるよね。今回の話は普通なら心霊写真のオチで終わるんだけど、何故か次の日をちょろっとだけ描くんだよな。クリスマスの話がそうだったように。